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親愛なる小林啓様。

さくら学院とBABYMETALの制作スタッフの謎を紐解く

日本のデジタルミュージック黎明期からのスピリットを受け継ぐ楽曲制作のプロフェッショナル:田辺恵二氏

前回より、宇佐美秀文氏について書き記し始めましたが、宇佐美氏から「お師匠」と呼ばれている田辺恵二氏。なかなかに面白い経歴を持っている方なので、ここは一章設けて書き記しておいた方が良いだろうと判断しました。宇佐美氏については、次回以降に田辺氏の経歴を踏まえて続きを書きたいと思います。

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田辺恵二プロフィール

 

さっそく、例によって公式プロフィールから紐解いていきましょう。

1969年4月22日生 東京都出身 O型。1991年 Charaのデビューアルバム「Sweet」にシンセプログラマーとして参加
1993年 古内東子のデビューアルバム「SLOW DOWN」に参加し全10曲中7曲のアレンジを担当、本格的にアレンジャーとしての活動を開始。「ゴスペラーズ」「及川光博」などの、アレンジや楽曲提供、コンサートにおける音楽監督を担当。
1996年 mode rockで日本クラウンよりアーティストとしてデビュー
1997年 ガーデンズ(伊秩弘将プロデュースのユニット)の中心的メンバーとして楽曲提供と全てのアレンジを担当。以後、多数のアーティストの作品に、レコーディング・ライブを問わず参加、楽曲提供も精力的に行う。
2001年以降はあらゆるジャンルに対応するソングライティング、アレンジでその活動の幅を更に広げる。2002年hiro「Eternal Place」で、2006年にはw-inds.ブギウギ66」で日本レコード大賞金賞を編曲家として受賞。(グルーブライン公式サイトより)

grooville 音楽制作

1969年生まれとのことで、今年(2017年)で48歳。中学入学(13歳)は1982年、高校入学(15歳)は1985年という世代感の方です。

グルーブラインという会社は、楽曲制作及びクリエーターやミュージシャンのマネージメントを行っている会社で、田辺氏はこの会社にマネージメント委託しているようで、つまり田辺氏は独立系のクリエーター(作編曲家)のようです。

 

 

浅田祐介Charaとの繋がりから業界入り

田辺氏は、高校の軽音楽部でキーボードプレーヤーとしての音楽活動を開始し、この頃に後にCharaのサウンドプロデューサーとなる浅田祐介氏と友人であったこと、またマチュア時代のCharaとも親交があったことから、1991年のCharaのデビューアルバムにシンセサイザープログラマーとして参加します。

www.youtube.com

 

これをきっかけに、古内東子氏のデビュー前である1991〜2年頃から、彼女の「プリプロ」を手伝い始め、ファーストアルバム(1993年)に作編曲家として参加します。この後、彼女の3枚めのアルバム(1994年)制作まで参加することになります。

www.youtube.com

このインタビューで詳細が述べられています。

media.miroc.co.jp

浅田祐介氏、Chara古内東子氏3名の方々のプロフィールも、簡単に要約して引用しておきます。

浅田祐介プロフィール

1991年にCharaのサウンド・プロデューサーとしてキャリアをスタートし、その後CHEMISTRYCrystal Kayキマグレンなどトップ・アーティストの作品を数多く手がけ、1995年にはシンガーとしてもデビュー。音楽プロデューサー、コンポーザー、シンガーであり(有)エニシング・ゴーズの代表。

MI7 Japan - Switch to Studio One|浅田祐介[3/3]

Charaプロフィール

1991年「Heaven」でデビュー(エピックソニーから23歳の時:筆者注)(中略)1995年岩井俊二監督 「PICNIC」 にて映画初出演。1996年映画、同監督作品 『スワロウテイル』 に出演、劇中でVocalで参加したバンド 『YEN TOWN BAND』 が大ヒット ! !翌年1997年リリースしたアルバム 「Junior Sweet」 は120万枚のセールスを記録した。

BIOGRAPHY - chara - UNIVERSAL MUSIC JAPAN

古内東子プロフィール

1993年2月にシングル『はやくいそいで』で(ソニーレコードから21歳の時:筆者注)デビュー。以降、シングル『誰より好きなのに』『大丈夫』をはじめ数々のヒット曲を飛ばす。(中略)2008年レコード会社をエイベックスに移籍(後略)

https://www.facebook.com/TOKOFURUUCHIOfficial

浅田祐介氏は、Mish-Moshが卒業した尚美ミュージックカレッジのアレンジ・作曲学科の講師もされている方ですね。

padi-metal.hatenablog.com

 

 

マニピュレーターとしてのキャリアスタート

しかし他のインタビューを見ると、公式プロフィールでは明かされていない(読み取れない)経歴があるようです。

古内東子の仕事をやる前にマニピュレーターの仕事をやっていたんですが、当時、森達彦さんから声をかけて頂き、森達彦さんの会社 ハムに籍を置いていました。山口百恵さん作品を始めとする大御所のアレンジャー萩田光雄さんを始め、先生方に付いてアシスタントをやるんですが、機材はもちろんのこと、スタジオ内での仕事の回し方など大変勉強になりました。萩田さんは厳しかったですが、僕のことを買ってくれて、よく現場に呼んで頂きました。

【People of Sound】第31回 田辺恵二さん | Rock oN Company

前述と時期は前後しますが、高校を卒業した1988年(18歳)から、PA会社で働き始め、この仕事がきっかけでしょう、マニピュレーターのアシスタントをはじめたようです。ただし、レコーディング時のマニピュレーションか、ライブマニピュレーションなのかは不明、またどのアーティストかも不明です。

以降の田辺氏の動向を見ていると、アシスタントの仕事は古内東子氏の楽曲制作等に携わっている期間も並行して行っているように思えます。ただ、アシスタントという位置からは早々に脱却したかもしれませんが。

森達彦氏、萩田光雄氏については後ほど述べます。

 

1989年頃からマニュピレーターアシスタントとして業界入り。その後リエーターとしての音楽キャリアのスタートは、1991年頃からのシンセサイザープログラマー/マニピュレーターからだったようです。

時代としては、YMOのブレークが1979年(松武秀樹氏が日本のポピュラー音楽界でシンセサイザープログラマーとして認知を得た時代)、1982年MIDI規格が決まり、シーケンサーが進化を続け、パーソナルコンピューター(Mac,Atari)がようやく普及し始めた1990年代初頭。デジタルミュージックの黎明期としては、シンセサイザープログラマーがまだ希少な人材であった時期でした。

そしてシンセサイザープログラマーという職種は、機材の進化、ミュージシャンニーズの変化により役割の細分化(専門化)が進み、マニピュレーターと呼ばれる職種・役割が徐々に明確化する時期でもありました。

(以下の記事参考にしました)

sf2k-lab.com

uroros.net

 

 

アーティストデビュー、そしてゴスペラーズのバックバンドへの参加

前述のインタビューからさらに引用します。

(前略)それがデビュー前の古内東子でした。それから彼女がデビューするまでの2年あまり、プリプロを手伝ったりしました。古内東子サードアルバムまで制作に関わりましたが、その後、仕事が無くなってしまい「やばい。」と思ったんですが、人に「事務所に入った方がいいよ。」と言われ、紹介されて入ったのがヴァーゴミュージックだったんです。大きい事務所だったので「こんなところに僕が入っていいの?」と思いました。

ヴァーゴミュージックとは、

1977年9月、音楽家、作詞家、作曲家などのマネジメントを主たる営業目的として発足。(中略)EPO清水信之小林武史、富田恵一、佐橋佳幸小倉博和大村憲司、CHOKKAKU、松本晃彦遊佐未森アンジェラ・アキなどの音楽家マネジメントや興行(海外招聘含む)を行う。

有限会社ヴァーゴミュージック | VIRGO MUSIC

田辺氏がヴァーゴミュージックへの所属を決めた時期は1994〜5年頃と考えられます。

当時この会社には作家性が強く、商業的にも成功を収めていたアーティストのマネージメントを数多く手がけており、この営業力の賜物だったのでしょう、田辺氏もアーティストとしてのデビューの運びとなります。

ただし「1996年のmode rockのメンバーとしてデビュー」とある件については、シングル1枚のみを発表して終わったようで詳細は不明です。(CDJournalのサイトでは、1995年のシングル発表になっています。プロフィールは記述ミスのようです。)

 モードロック / おしえて神様 [廃盤] - CDJournal

 

そして、直後の1997年には、その前年1996年ににデビューしたSPEEDのプロデュースで波に乗っていた伊秩弘将氏のプロデュースで、The Gardensのメンバーとしてトイズファクトリーからデビューをするこになります。

The Gardensは、女性ボーカル1名に伊秩氏本人とアレンジャーとして田辺氏が加わった、3名からなるバンドというよりは、音楽プロジェクトでした。

www.youtube.com

The gardensは、商業的にそこそこの成績を収め、1999年頃まで活動が続きますが、田辺氏自身は、この活動(作編曲)と並行してマニピュレーターの仕事も続いていたようです。

当時のバンマスだったお師匠のアシスタントとしてツアーに参加したのが1998年の「衣食住」ツアー。(1998年9〜10月:筆者注)その後2000年の、その名もずばり「2000」ツアーからマニピュレーターとしてバンド入り。usamix's note "baby talk" Rev.E: 2月 2015

先日の私のエントリーでも引用した、宇佐美氏のブログからです。これによると、遅くとも1998年9月からゴスペラーズのツアーへマニピュレーターとして参加していたことが確認できます。

「バンマス」とあり、生バンドであったかどうかは不明ですが、田辺氏のプロフィールと当時のゴスペラーズの状況(バンド帯同できるほどまだ売れてなかった)から察するに、バックトラック中心の編成におけるマニピュレーター兼バンドマスターといった役割での参加だったのでしょう。

また、森達彦氏のHAM、及びヴァーゴミュージックとの関係はどうなったのかは不明です。もしかしたらアーティストマネージメントはヴァーゴ、マニピュレーターとの仕事はHAMといったように並行していたかもしれません。

 

 

日本のデジタルミュージック黎明期からの活躍するサウンド・エンジニアとの繋がり

さて、前述の森達彦氏、萩田光雄氏について、プロフィールを引用します。

森達彦プロフィール

日本のシンセサイザープログラマー、エンジニア、サウンドプロデューサー。1954年5月1日生まれ。長崎県長崎市出身。1978年(株)レオミュージック入社。入社後シンセサイザーのプログラミングを習得。 1984ムーンライダーズと共同出資でプログラマーのマネージメントを主な業種とした(株)hammer設立。 1987年社名をHAMに変更。(中略)シンセサイザープログラミングの仕事の傍ら、プライベートスタジオにおいてのちに渋谷系と呼ばれるクルーエルレコード、エスカレーターレコードのエンジニアリングをサポートcobaムーンライダーズおニャン子クラブチャゲアス他、15年間で3000曲以上の楽曲にプログラマーとして参加 。

Wikipedia/森達彦 項より引用)

萩田光雄プロフィール

作・編曲家、音楽プロデューサー1946年6月16日生まれ。ヤマハ音楽振興会録音スタジオ勤務の傍ら、林雅彦氏に師事、作・編曲家を目指す。高木麻早「ひとりぼっちの部屋」の編曲でデビュー。その後、編曲家として目覚しい活躍をとげ、1975年「シクラメンのかほり」(布施明)他で、76年には「メランコリー」(梓みちよ)で2年連続して日本レコード大賞・編曲賞を受賞。その後もポピュラー音楽界第一線の編曲家として活躍中。また作曲家、ミキシングエンジニアとしても意欲的である。

萩田光雄 / Mitsuo Hagita

森達彦氏は、まさしく1970年代後半からの日本デジタルミュージック黎明期のシーンを牽引してきた人物とも言えるシンセサイザープログラマー萩田光雄は歌謡曲畑のアレンジャーの重鎮。

田辺氏はこのような重鎮達の元で、マニピュレーター、アレンジャーとしての腕を磨いていったのでしょう。

機材はもちろんのこと、スタジオ内での仕事の回し方など大変勉強になりました
【People of Sound】第31回 田辺恵二さん | Rock oN Company

との発言から察するに、ライブの現場・レコーディングの現場での人間関係から、現場指揮のようなことまで、様々なことを学んでいったことも大きかったんだろうなと解釈しています。また、師弟制度のような伝統ができていたように見受けられるのも面白い点です。

 

日本の音楽業界でのシンセサイザー、コンピューター技術周りのクリエーターが潤沢にはいなかった時代、クリエーター間にどのような交流があったのか?ものすごく興味が湧いてくるのですが、本筋(当ブログの趣旨)と離れてしまうので、これ以上の追求は辞めておきます。

ただ面白い記事がありましたので、リンクだけでも。

d.hatena.ne.jp

 

 

マニピュレーターから作編曲家へ

前述のインタビューから再度引用します。

作家としての仕事が多くなるのは2000年頃からです。いわゆるコンペブームになり「コンペに出さないと仕事にならない。」と事務所に言われたので「じゃあやるか。」と始めた訳です。

【People of Sound】第31回 田辺恵二さん | Rock oN Company

1990年代の日本の音楽業界の活況が一息ついたからなのでしょうか?田辺氏は、2000年頃から作家(作曲・編曲)の仕事へ重点を移していきます。

作家としての仕事は以降順調に増えていったようで、さまざまなアーティストへ楽曲提供をしています。片やライブマニピュレーターなどの現場の仕事からは退いていったようです。

 

 

こんなインタビューを見つけました。

多くのアーティストのプロデュースを同時進行で手がけ、多忙な毎日を送る田辺さん。最後に最近の仕事で気に入っている作品を5枚挙げていただきました。

ICON » Creators Workspace #1:田辺恵二 〜 ゴスペラーズや古内東子、CHARAなどの作品で知られる気鋭の音楽プロデューサーの自宅スタジオ 〜

あぁぁ・・・

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さくら学院2014年度アルバムをこの1枚に上げているではないですか・・・田辺氏は、2014年度の「さよなら、涙。」の作編曲も手がけていたんですね。こう繋がってたか。びっくりしました。(私が見落としていただけなんですが・・・)

 

 

 

しかし、このインタビューに掲載されている田辺氏の自宅スタジオ写真(ワークスペース周り)凄すぎます。

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(この項以上)